選択できるという自由
ちょうどひと月前に始めた遊びは、途中、実家の引渡し前に数日中断したものの、ルーティンになりつつあります。
引渡しが済んで、強烈なプレッシャーから解放された翌日は…
実家と一緒にもう一度両親を見送るようで、切なさや悲しみ、寂しさが溢れるようでしたが、ハートの奥の埋蔵金、じゃなくて喜びや楽しさにアクセスすることは充分できて、でも、ふと思ったのです。
今日は、そういう日じゃない。。。
私にとっては、自分自身の一部、それもかなり大きな部分が死につつあるような経験をしている事に気付きました。
人生のあるべき新陳代謝として受け入れることは容易で、重い執着や苦しみは無くても、悲しかったり、寂しかったりが胸の奥から湧いてきます。
楽しい嬉しい、というのはまたいつでも経験できます。
この人生で二度とない、その経験を自然なままに受け入れ、味わうことの方が大切に思えました。
そして、悲しみを選ぶことにしました。
でもね!
選ぶってね!
経験する感情を自発的に選べるという、そのことに改めて驚き、かなり感動しました。
選択の自由は、自由そのものです。
一日二日、悲しみや寂しさを選んだ後はすっきりして、また楽しいや嬉しい、ワクワクなどを選ぶようになりました。
それでも人生の大分岐点で、愛するものと一緒に古い自分が死んでゆくことに対しては、やはりまだ悲しみや寂しさ、切なさを感じて涙が出ますが、それは甘酸っぱいような胸キュンです。
そして、呆れたことに、この人生で初めて、胸キュンがどのようなものかということを知りました(^^;)
来年還暦なんですけれどね〜(^0^)
- 何でもなくて天国な日常
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