孤独からの卒業
断頭台の刃がいつ落ちてくるか、みたいなプレッシャーは実家の引渡しの日から消えました。
その前はさすがにハートが閉じていて、ハートの向こうにある心地よいエネルギーにアクセスしようという気にさえなれず、友人にSOSしました。
忙しい人なので、ほんのちょっと電話でと思いましたが、彼女がZoom茶会にしてくれたので、ノンアルの泡を飲みながらゆっくりおしゃべりしました。
別に話すことも無くて、「これこれこうでね、寂しすぎてね〜」みたいにひとこと説明すれば済むので、後は、共通の亡くなった友人のこととか、家の間取り、中国経済や自分ちの経済の話など、とりとめのないおしゃべりです。
それでも、この日だけはきついプレッシャーから解放されて、眠りにつくのもスムースでした。
これね、コロナで学んだことなんです。
最初は、寂しい寂しいと吠えている人たちを、「甘いな〜、何言ってんだか、世の中コロナじゃなくったって、心底孤独な人は掃いて捨てるほどいるわよ」などと切って捨て、出勤できずにコミュニケーションが全てZoomやオンラインになってしまい鬱になったと長々と記事を書かれた家族持ちには、マジでブチ切れました。
敏感な向きには、この怒りの反応に私の苦痛が隠れていることを察していただけることでしょう。
そうこうするうちに、私の感覚の方がよほどずれていることに気づかされました。
誰かと一緒にいること、つながること、これは辛い時の薬です。
友人とただダラダラ話をして、時々盛り上がって嬌声を上げ、ノンアルワインをぐびぐびしましたが、まるでアルコール入りを飲んでいるような満足感でした。
本当は引渡し前日も、何回もお手伝いに来てくださったFさんをご招待して、手作りおはぎをご一緒にささやかな茶会をと思っていたのですが、ひどく暑い予報が出ていたので断念(予想通りで本当に暑かった…)。
もともと一人っ子で、一人でいるのは慣れていますが、友人どころか知人もゼロのバンコクで暮らした時は流石にきつかったです。
幸いサービスアパートのスタッフの皆さんが、英語ができる人ばかりで、フロントでのやり取りや、気のいいベルの人たち、そして有り難いことに担当のメイドさんが英語ができた上に人柄の良い方で、どれだけ救われたか知れません。
その後も、孤独で寂しい時間の方が圧倒的に長かったです。
寂しいとも言えずに。
コロナ禍が無ければ、一人でいるのは当たり前だし、誰かをわずらわせずとも、どんなに辛い時でも一人でどうにかするのがプロでしょう、などと思い続けていたかも知れません。
これまでは人に寄り添い、人の悩みを聞く一方で、わあわあ喋っていても、辛い気持ちを打ち明けるのは難しかったし、一緒にいてほしいみたいなことも言えませんでした。
だから電話は嫌いだったし、ただ人と繋がることの意味もよくわからなかったかもしれません。
でも、これからは違います。
ではなくて、もう違っています。
という訳で、皆さまどうぞよろしく(^0^)/
- 何でもなくて天国な日常
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