悲しめるという幸せ
母が帰ってしまった時は全然違って、というのも体も動いたし、コロナで外出制限がかかる事もなかったため、その日からフル回転どころか限界を超えるような労働の日々が始まりました。
葬儀の前後は洗濯機の中で回っているかのように、どっちが上でどっちが下だかわからないような状態でした。
その後熱を出して寝込んだ後は諸手続きで駆けずり回り、幸い事務が苦手ではなかったので、ひどく辛かった記憶は無いのですが、朝から晩まで煩雑な書類の山に埋もれて脳が興奮し続け、ちょっとやそっとの瞑想では交感神経が鎮まらず、2ヶ月間ぶっ続けで睡眠障害を抱えました(^^;)
そこまで忙殺されても、悲しみに直面せずに済むという利得はあり、それでも葬儀の準備中だか、胸が割れるほど痛くなった時は、諦めて時間をとって泣きました。
その時は、悲しいことは悲しくても、母の死を悲しめることに幸せも感じていました。
母とは若い頃からうん十年のひどい葛藤を抱え、絶縁してもおかしくないようでしたが、自分を癒す過程で、母を受け入れて愛することができるようになり、晩年は穏やかな良い関係でいられました。
もし憎み続けていたら、母がいなくなっても、純粋に悲しめなかったことでしょう。
父とはとても仲が良くて、喧嘩もしましたが、母が亡くなってからは助け合い支え合って、本当に良い親子でした。
だから悲しみや辛さは人一倍でも、仕事柄、親子関係の相談はしょっちゅうなので、そうやって親の別次元へのお引越しを深く悲しめるのは、とても恵まれたことだと思えたりします。
悲しくて嬉しい、やっぱり人生は可笑しい、そしてステキです(^0^)
- 楽しいお葬式
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