二足のわらじ
本質的な「私」と限定的なパーソナリティ、という二足のわらじで生きていると、自分自身のパーソナリティの凸凹も気にならなくなりますが、他の人のも気にならなくなります。
「ちょっとおっ!」みたいな言動でも、その人が必要な経験をするのにわざわざデザインしてきた「不具合」であり、それが心底こたえるとしたら、こっちのデザインにも問題があります。例によって鏡の法則です(^^)
この二重構造からすれば、例えば恋愛なども、人柄がどうの容姿がどうの、ではなくて、お互い「用」があるから好きになったり、付き合うことになったりするだけでしょう。
そう言ってしまうと身も蓋もありませんが、一人では決して経験できないことを、別々、あるいは同じ課題を持った二人が出会って、天国でも地獄でも経験することは貴重だと思います。
家族を始め、親密な人間関係は、みんなこれでしょう。いえ、親密なやり取りが無くたって、この地上でコミュニケーションをする人たちとは、全員何かしらの用があって出会っているソウルメイトだと思っています。
そこでお互いの凸凹が衝突したり、うまく噛み合ったりすることで固有の経験が生み出されるわけで、たとえ不具合だとしても、それはそれとして機能していると言わなければなりません。
実は、生育歴から来る理由の無い不安感の根っこが抜けていないらしく、乱雑だったり汚れた場所はとても苦手です。きれい好きでも掃除好きでもありませんが、秩序を感じられるような整理整頓された空間でないと安らげないので、掃除機をかけない日はあまりありません。
調子が悪ければ悪いほど、きれいになっていないと辛いので、無理をして掃除している時など、「あんた強迫神経症かい」などと自嘲してます(^^;)
以前だったら、なんとか浄化!して自分を変えようとしたかもしれません。でもね、マインド自体がもしかしたら神経症の構造そのものかもしれない時に、無駄かもしれない。。。
ラム・ダスが、どこかで「これだけ修行してきても、やっぱり神経症は治らなかった」と書いていて、それを読んだ時はよくわかりませんでしたが、今はわかります。
限定された私だけだったとしたら耐え難くても、エゴだのマインドが触れることができない本質的な「私」が同時に存在している時、限定された自己が神経症を持っていても、大した問題ではないのかもしれません。
ああ、長くなっちゃった。
抽象的なようでも、極めて日常的な話で、最近はこんなことばかり考えて面白がっています。
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