慈悲の瞑想2
無条件の愛と慈悲についての続きがありまして、他にもアップしたい記事があるのですが、やっぱりこっちが先。
久しぶりに慈悲の瞑想に接して、実は私も困惑しました。
勿論、自分自身のために祈ったり、しかも誰よりも先に自分自身のことを…、というのは全く問題無しです。
引っかかったのは、「幸せ」という言葉でした。
原典のパーリ語については全く知りませんので、どのようなニュアンスなのかはわかりませんが、「幸せ」と言ってしまうと、私は二つに分裂してしまう、というか、二つの私の間でどうしましょう。。。という感じになってしまうんです。
ああもう、変な話で恐縮ですが、これ、今L的にはとても大事なことでして…。
幸せでいたい、安楽でいたい、これも正直な気持ちとしてありますが、こんな風にナイーブに自分の幸せを望む普通の自分とは別に、その地上的なパーソナリティを作った「私」は、計画してきたことを経験している時、その経験がネガティブかポジティブかは一切不問で、満足しています。
「天使 vs. 観音」で書いた、リマーナすずさんが見たという、あの天使たちの感覚と一緒です。「素晴らしい〜〜〜!」しか無いんです(その経験から逃げちゃったり、辛い思いを受け止めずにごまかしちゃったら知りませんよ)。
そこで慈悲の登場になります。
この地上的な、つまり今生計画した経験をしやすいような自分をデザインした「私」からすれば、例えば、その自分が、計画通りに、神経系のひどい暴走で何もできなくなって頭を抱えているのも、ノープロブレムです。
あんな事は二度と経験したくなくても、あの経験を通じて、自律神経系の重要性や、不具合を起こしている際の仕組み、またその対応策についての理解が飛躍的に深まりました。胃腸が弱いとか、心臓に先天的に問題があるみたいなことは誰でも抱えていて、私の場合は神経系に弱みがあります。これ、今回初めて認識しました。
その上、意識的には正常でありながら(だから一層死ぬほどきつかったです ^^;)、常軌を逸した苦悶感で、一瞬観音も青ざめるようなすごいものを体験したのは、やっぱりお得だった気が…(と書きながら、そんな脳天気な事を言っているヤツは誰だよ、と言う内側の声も聞こえます)。
それでもですね!ブループリント通りでも、お得でもなんでも、人が死ぬほど苦しんでいる時に、天使のように「素晴らしい〜〜〜!」などと言われるばっかりでは、地上要員はもちません…(^^;)
そこで観音が登場して、「これはまたひどい苦しみようだ…」と慈悲をかけてもらう必要が、どうしたって、あるでしょう?
「慈悲の瞑想」は、幸せを祈る、というよりは、地上の苦しみをかいくぐっているそのことに慈悲を持って寄り添う観音の行、という理解が、今の私には一番ぴったり来るようです。
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