慈悲の瞑想
今回、慈悲や無条件の愛について改めて考えたのは、元旦にゲットして、ゆるゆると読み進めていた山下良道『光の中のマインドフルネス』(サンガ刊)で、慈悲(メッター)の瞑想について書かれている事に、ちょっとした衝撃を受けたからです。
この瞑想は、私も瞑想を始めたばかりの頃、テラワーダ(小乗)仏教の元僧侶から直接教わりました。
自分から始めて、好きな人、見知らぬ人、そして嫌いな人、最後に生きとし生けるものの幸せを、順番に祈ります。
一番最初に自分自身の幸せを祈るのは、当時、違和感があったことを記憶していますが、幸か不幸か、私の入り口は精神世界でした。
それも脳天気でついてゆけないなどと悪口を言われることもある、アメリカ西海岸流のニューウェーブ、「自分をまず愛さなければ何も始まりませんっ ^0^ /」などと大声で叫ぶ宇宙人とかに背中を押され(ええ、あの目の大きなお茶目な方です)、まずこの自分を愛する、というのが宇宙の常識であり、その上、言うのは簡単でもえらく大変な修行なのを、うんうん言いながらお勤めしていたわけです。
今回、『光の中のマインドフルネス』で、自分の幸せを祈ることに激しい抵抗感をたくさんの人が覚える、というのを読んで、「ええええ〜!」と心の中で叫んでしまいました。
自分の幸せを祈ることにひどいショックを受けたり、激しく抵抗する人がいることが、私にはショックでした。
著者ご自身が、マハーヤーナ(大乗)仏教の正統な修行をなさった僧侶であり、自身の幸せを諦めて衆生の幸いのためのみ生きるのが務めだと信じていて、テラワーダの修行をなさった際、この慈悲の瞑想に出会われ、大変なショックを受けたそうです。
そういえば、しばらく前に、友人から似たような事を聞いていて、ただ彼女の場合は、「ああ、自分の幸せを祈っていいんだ」と解放された、という話だったので、とても良い話だと嬉しく聞きました。
自分が幸せでいられるように自分を大事にして、というのは基本中の基本で、このベースが無いことなど考えられず、Mirus Clubでは一貫してそのようにお話ししてきました。
実際、自分を大切にできない人が、どんなに親切で優しくても、大局的には相手を大事にできないことは、十年以上、自分自身や周囲を観察してきて、はっきりしています。人を幸せにしたい人こそ、まず自分を自分で幸せにしているかどうかを、きちんと見きわめる必要があると思います。
自分の幸せを素直な気持ちで望めない、というのは、以前はそれが普通でも、今まだそれが普通だとは正直なところびっくりしました。
あたし、ズレ過ぎてたりして…?(え、知らなかったの…?という声が聞こえそうな。。。ちょっと認識甘かったかも。。。)
自分自身の幸せを願うことを、単なる我欲と混同していたり、自分自身が幸せや安楽に値するわけがないという自己否定が、かなり残っていることを知ってはいても、本当にまだこんなにひどい混乱状態なのかな。。。というのが実感です。
この慈悲の瞑想を、明後日のギャザリングでやってみようかと思ったのですが、他のビッグ・イベント!!のご案内が来てしまいました(次のブログでお知らせします♩)ので、3月度で、と思っています。
慈悲の瞑想なんて聞いたことも無い、あるいは一度も試してみたことの無い方は、来月、是非ご参加ください。もしかしたら、世界が変わるかも。。。
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