フツーの人生の凄さ
前のブログでは、関係性が非常に薄いというか、遠い通販店とのやり取りでしたが、このエピソードが起こるしばらく前に、もっとずっと濃い関係で、きちんと自分の思いや考えを伝えることを学ぶ機会がありました。
またまたその貴重な相手になってくれたのが、母!でした。
彼女とのひどい葛藤を十年単位で癒した後は、本当に何でもなくて、お互いが違いすぎるので距離は取っても、ごく普通の親子になりました。
ところが、実家に行った際、事件勃発!!
あまりに言語道断で、逆に言えば、ぶっ飛び過ぎていて、ひどい目に遭った本人(私のことです ^^;)が、逃げて帰る途中、可笑しくて、クスクス笑いが出てしまうようで…何ともまあ…(--;)
一種の虐待に分類されるかもしれません。
たまたま一緒にいた癇癪持ちの父ですら、呆気に取られてもごもご言うだけでした。
父は多分、半世紀を超える、愛情と言う仮面を被った虐待の具体的な場面を初めて目撃したのです。これはとても有難いことでした。「こういうことが、パパが会社や出張で留守の時に散々あったのよ」だけで、ようやく話が通じるようになったからです。
全然腹は立ちませんでした。母に悪気がないことはわかっていますし、私がどんな気持ちになるかもわからないのが、よく理解できるからです。それでもトラウマが完全に癒えていないせいか、あるいは単にショックだったのか、かなりめげました。
それから、ふと、相手がわかってもわからなくても、ちゃんと自分の気持ちを表現しなければいけない、と気づき、電話をかけて、どんなに傷ついたかをニュートラルに伝えました。
母はあまりよくわからないようでしたが、その後の展開が奇跡のようでした。
翌日、母から心配して電話があり、一旦は、いつものように「大丈夫だから」と切りましたが、そこでまたふと、あ、母はとてもオープンだった、ちゃんとコミュニケーションできるかもしれない、とこちらから電話をかけ、今まで一度も言ったことの無いことを告げました。
大事に育ててもらって、感謝はしているけれども、母にそのつもりがなくても、私からすれば虐待に類するような事をされ続けて、本当に愛されたという実感が今に至るまで持てない…
母はもういつ故郷に帰ってもおかしくない状態です。私は、長年のワークで、母を理解して受け入れられるようになったし、このような事を言わずに見送るのが良いだろうとずっと思っていました。
でも、流れで、この真実を告げることに…。
母は今まで私に謝るなどということがまずなかった人です。その人が、平謝りに謝って、逆に私が慰めるようで、それでも最後は双方とても穏やかな気持ちで受話器を置きました。
初めは何が起こったのかよくわかりませんでしたが、何か大きな事が起こった気はしていました。
多分私の方に、彼女を非難する気持ちがゼロだったのと、ニュートラルに事実を伝えただけだったので、双方で余分な感情が動かずに済んだのでしょう。そして、伝えるべき事がちゃんと伝わったようでした。
あのひどい葛藤をうん十年間した親子が、こんなに穏やかにこの過酷な真実に直面できるほどに愛に包まれたこと…
この経験が、平凡な人生の凄さを浮き彫りにしてくれました。
華々しい成功や、非凡な才能、形而下でも形而上でもの際立った達成ではなくて、ふつーな人生の中にあるとてつもない物語(経験)…
ごく普通の人生が、実は、本当に深くて貴重な経験なのだと、心底納得させられた出来事でした。
- 何でもなくて天国な日常
- / trackback:0
- / comment:0
- [ edit ]