傷と痛み
傷つく事を恐れないように…というメッセージをよく見ますよね。。。でも、傷つくって、どういうことでしょう? 最近それがよくわからなくなりました。で、ちょっと考えてみました。
びっくりするようなひどい事をされても、傷ついた感じがしない…いえ、自分をごまかしている訳じゃなくて…痛みは感じますから。。。
でも、その痛みも自分の内側に起源を持つものなので、相手に傷つけられたという感じがしないんです。しかも、自分を充分以上に愛して完全に肯定して好きだし、自分の真実に誠実でいて、周囲に対しても誠でいる時に、傷つきようがない気がします。
もし自分自身を肯定できずに、批判していたり、劣等感を抱えていたり、自分の言動に自分なりの筋が通っていない事にわだかまりを感じていたら、そこに他の人の言動がヒットして傷つくんじゃないでしょうか?
たぶん傷は深くて残るもの、そしてそのままにしておくと、繰り返し同じ出来事を引き寄せては深くなってゆくもの、痛みは一過性で根を持たないもの、そんな気がします。
さらに、被害者にならないという選択をしている限り、やっぱり傷つけられようが無いです。被害者がいない時に、「許す/許さない」の葛藤も生まれようがありません。全て自分自身が選んでいる経験であり、それが痛みの経験であっても創っているのは、私…と納得できれば、その痛みに包まれたギフトを受け取ることもできるし、それがどんなに人生を豊かにしてくれているかを、嬉しくさえ思います。痛くて、嬉しくて…って、Mじゃないですからね…(^o^;)痛みを感じている部分と、痛みのギフトに感動したり、満足している部分が共存するということです。
逆に、エゴでもって相手を傷つけてしまったそちらの方が無傷ではいられないと思います。故意でなくても、人にひどいことをしてしまったら、罪悪感を感じるでしょう? その罪悪感は、マインドがどんなに巧妙にごまかしても、潜在意識に潜って、自分自身を傷め続けます。故意なら、一層のことその傷は深くて、それを浄化するまでは、自分自身を心底肯定できるでしょうか? 輝かしい神性の光を、エゴの汚辱で曇らせる、それを見るのはとても悲しいことです。
勿論、そうした自分をも受け入れて愛するのが本当の無条件の愛ですが、できれば、そうした罪悪感など無しに晴々と生きて、自分自身を讃えたいものです。そっちの方がずっと簡単だから。。。
そのような継続性の深い傷を病む苦しみに比べれば、一過性の痛みなんて、何でもないかもしれません。
- スピリチュアル
- / trackback:0
- / comment:0
- [ edit ]