神聖なる安らぎの場所に瞑想によって入る by イエス(ジョン・スモールマン経由)
しばしば、皆さんが内面に向かう時、皆さんの精神は、気を散らされる考えで膨らみます。
すべてのそうあるべきこと、不安、そしてひとりの人間としての日々の人生が皆さんに要求するように見える“しなければならないこと”です。
これはただ単に、神聖なる安らぎのある場所から皆さんを引き離して幻影に引き戻そうと試みている、皆さんの自我です。
まさにそういった次元の考えを認め、自我は皆さんの安らぎの場所から皆さんの目を逸らそうとしていることを認め、しかし自我に関与しないでください。
頻繁に起るようにもしも皆さんがこれを実感する時にそこに引き込まれるなら、皆さんは気を散らされているという事実に関するどのようは判断も持たずに、ただその内面の安らぎの場所に戻ることを意図してください。
雑念は、皆さんが築き上げた幻影の本質的な側面です。
そして最初は、数秒では済まない間、皆さん自身を雑念から切り離して考えることは、難しいことです。
真言を復唱し、一本の蝋燭または皆さんの呼吸に意識を集中するか、あるいは皆さんが瞑想状態に入る支援をするように意図された静かな音楽を演奏することは、役立つものになることができます。
しかしあらゆる皆さんが異なり、瞑想の中で内面の安らぎに到達するように皆さんを支援することができる様々な方法で異なって反応します。
そして言うまでもなく、皆さんは瞑想のためにひとつの定められた方法を用いることを断言する必要性は一切ありません。
皆さんにとって正しくて心地良く感じることを行なってください。
そして、皆さんの新しい日課に順応するための時間を取って、数週間の間それを実践してください。
皆さんにとってより良いものを見付け出そうと努力しながら日課を変えることは、それは皆さんを気が散ったままにしようとする皆さんの自我の試みになることがあるため、自滅的ものになる可能性があります。
寛いで、許し、そして数々の考えまたは雑念が現れる時、それに関与しないでください。
しかしその一方で、皆さんが関与してそれに気付く時、ただ静寂に戻る意図を定めて、失敗のような物事は何ひとつ無いことを自覚してください。
瞑想は、皆さんが皆さんの真の自己と、神とひとつである自己と結び付くことができるようにする、ひとつの実践です。
ピアノ演奏家達は、日々自分達の専門的な技量を維持する訓練をするために長い時間を過ごします。
そのため、皆さんが求める安らぎと静寂を見付け出すための瞑想に入るために皆さんが行う練習量に、驚かないでください。
成功しているまたは失敗しているというように、皆さん自身を判断しないでください。
そして、進歩している皆さん自身を確認することを求めてないでください。
何故なら、それはまさにさらに多くの雑念になるからです。
ただ皆さんの実践のための規定の時間と場所を設定してください。
そして皆さんが認めた時間が過ぎた時、皆さんの日々の生活に戻ってください。
もしも皆さんが期待を持たずに皆さんの実践を維持するなら、皆さんは安らぎと充足に気付くことになるでしょう。
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