永遠とは…大拙の言葉
うう…低気圧の重みに湿気が加わって、頭茹ってます…使い物になりません。。。
鈴木大拙館では、大拙の言葉などをコピーしたテキスト…と言っても1枚の紙なんですが、日本語のものと英訳のものがそれぞれいくつか置かれています。欲しい人はそれを取って、チケットと一緒に渡される紙挟みにはさんで持ち帰れます。面白いアイデアです。紙挟みの内側には、大拙の略歴も書かれていて気が利いています…。
水と緑に囲まれた、シンプルこの上ない思索空間で考えたことを、前のブログで書きましたが、いただいてきたテキストに、よく似た言葉がありました。
永遠とは、この知性・感覚の世界におけるわれわれの日常の経験であって、この時間の制約の外に永遠があるのではない。永遠は、生と死の真只中、時間の進行の只中においてのみ可能である。
自分が指をあげる。これは時間の中である。そしてこの指先に、永遠が躍動している。
『禅』工藤澄子訳 『鈴木大拙全集[増補新版]第14巻』p145(岩波書店刊)
テキストは思索空間を出た後で読んだと思うのですが、違ったかな…当日は、この季節なのに晴れちゃって、やっぱり頭茹だってましたから…記憶に自信なし…幸か不幸か晴れ女で、二泊三日の梅雨の真っ最中に、持参した傘を一度も雨傘として使用しませんでした(^^;)
この他にも最近よく考えることが、「妙」という大拙が晩年に熱中していた概念とすごく似ていて、驚きました。
最近、ぼおおおおおおっとしているのが以前にも増して好きになり、今日はお気に入りのカフェに行くのに本を持参しませんでした。初めてだったかもしれません。なので、大拙の著作を真剣に読もうと言う気にはならないのですが、パラパラしてみたい気持ちにはなりました。何でも読みたくて仕方なく、目力にも体力にも余力があった時に国文科なんかじゃなくて、哲学科に行っとけばよかった…あ、はまりすぎて、こちらに帰ってこれなかったかも…やっぱり国文科でよかったということにしておこう。。。
- スピリチュアル
- / trackback:0
- / comment:0
- [ edit ]