孤独と独りでいること
OSHOの本は、随分前に何冊か読みましたが、イマイチぴったり側に寄りたくなるようなマスターではありませんでした。
それでも彼の言うことはクリアーで的を射ていて、いいね!をつけたくなるんですが、何かが私にはぴったり来ない人です。
最近、何かを検索していて、彼の文章を引用しているサイト(inner force)がヒットしました。
愛しているときは、孤独ではない。それは正しい。たが、愛しているとき、あなたは独りになるほかはないーーそれは、さらに真実だ。
Osho, The Fish in the Sea is Not Thirsty, #2より抜粋
長いメッセージを要約すると…
孤独は否定的な辛い傷のようなものであり、孤独を埋める為に人は関係を求め、食物、薬物、アルコール、娯楽を追い求める。たとえ配偶者や恋人がいても、そこに本当のコミュニケーションは無く、痛ましいそれぞれの孤独があるだけだ。互いに飢えていて搾取し合うような関係は、友愛ですらなく、ある種の敵意だ。孤独とは対照的に単独であることは、肯定的で、自分のスペースを確保して自分自身でいる喜びであり、至福であり、愛が独りでいる勇気と状況を与えてくれる。こうして愛の深い満足の中にいる時、誰も必要としない。そうして愛にあふれた時、それを誰とでも愛している人と分かち合うことができる。
実は、前回のMirus Clubでもこのことについて触れました。
一人だと寂しくてやってられない…と感じる人は普通に多いのかもしれませんが、それは自分の内なる孤独感や飢餓感を、誰かが雑音の代わりになってくれないので、ありありと感じてしまうに過ぎません。
tomokoは年単位でこれを理解して解消しました。そして、寂しいのは、自分自身を愛していないからだ、ということを本当に腹の底から理解して、今に至っています。寂しい人は、誰といたって本当は寂しいし、一人になったら、その寂しさに直面しなければならないので辛いのです。
寂しさを感じなくても、人からの理解がすごく欲しかったりするのは、ヴァリエーションの一種です。tomokoも、理解してもらいたくて仕方の無い人でしたが、いつの間にか、そうした欲求がカラになっていて自分で驚いたことがあります。自分で自分を大切にして、自分自身を受け入れている時、誰かに受け入れてもらう必要性は、ほんとに感じられないんです。
でも、ただ一人でいても辛いだけです。「愛」に満たされていなければ、苦しいです。「愛」に満たされていれば、一人でいるのは何でもありません。そして人も愛せます。
自分自身のハートの奥にある愛にアクセスするには、一人になって静かに内側に入って行くしかありません。
これをするか、しないか、ここが分かれ道です。
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