慈悲
ロマンスカーで小田原に向かっている途中、お茶なんか飲みながら心底リラックスしていたら、ふっと気づいたことがありました。
例のプレアデスの金色の太陽から虹色の放射が出ている絵を覚えていらっしゃる方もおいでかと思います…最近、その金色の太陽、セントラルサンを瞑想中に拝みにゆく、というか、エネルギーを浴びることがあります。
霊的な父だという気がして、「父よ」と呼びかけますが、とにかくいつでも圧倒的なご機嫌モードで、「ぼほぼほ」だか、「ぼはぼは」としか形容しようがない波動で笑っています。そんでもって、勿論巨大。パワフルなという言葉が陳腐なほど、パワフルな巨大な愛です。
いつだか、父がにゅうっと手を伸ばして私を優しく掴み、彼の太陽の中に入れたことがありました。勿論中心なんかの波動には耐えられるわけがないので、ごく辺縁。。。もしかしたら、辛うじて金色の放射の中に入っただけかもしれません。それでも、体がバラバラに分解しちゃうか、と思うようなとてつもなく強烈なエネルギーの世界でした。
でもね、父が招いてくれたんだから大丈夫、と思って委ねていると、今は全く理解不可能な情報をパケットでたくさんもらっているようでした。この情報は、もっと意識が拡大して理解できるようになった時点で、解凍できるのだと思います。
ただ、この父のエネルギーに慈悲を感じたことはありません。
昔から、なんで「慈悲」には「悲」の字がくっつきますかね…と不思議に思っていました。
高次の世界には悲しみも苦しみもありません。この重い密度特有のエネルギーです。そしてこの世界で、悲しみや苦しみを実際に身に沁みるようにして体験していなければ、その悲しみと苦しみに、慈しみをこめて寄り添うこともできないでしょう。
泥の中から咲く蓮の花のたとえがよく使われますが、慈悲こそ、高次の世界には存在しえない、この世の蓮の花なのに違いありません。
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