自分を忘れた話 by メタフィジックス通信
メタフィジックス通信の管理人さんが経験した臨死体験です。
光が見えて、嬉しくて懐かしくて、その光に包まれたまま本当は帰りたくなかった、みたいな臨死体験のパターンとはまた違う、純粋意識への一直線の帰還です。
私も今回の集中ワーク中に、自分というパーソナリティがすごく希薄に感じられたことがありました。
それでも、自分というものを完全に忘れるまでの純粋意識を突きつけられると、まだこのパーソナリティに執着が残っていることが炙り出されて、思わず笑ってしまいました。
紐付きだったので、簡単に戻って来ちゃったのね〜(^0^)
以下、私のアウェイクニングの話 その38 自分を忘れた話の転載です。
私が東京で最後に借りたアパートは山手線の内側にあり、盛り場まで自転車で行けるのをよいことに、よく遊び、よく働いていました。毎日は楽しかったですが、本当は見たくない何かから目を逸らすためのヒステリックなバカ騒ぎとも言えました。
その頃、たまたま西麻布でショーを見たレゲエ歌手が、今、私が住んでいるオークランドの小さなライブハウスに来ると言うので、せっかくの機会だからと見に行くことにしました。そのレゲエ歌手こと、リー・”スクラッチ”・ペリー氏は、ボブ・マーレー&ウェイラーズにも携わったジャマイカのプロデューサー兼音楽家で、なんと御年83才。
前回、見に行ったのはいつだったか調べると、2004年のことでした。15年ぶりに見るスクラッチ・ペリーは、以前にも増してジイサンでしたが、もはや半分歴史上の人なので、どんなパフォーマンスをしようと、オーディエンスは大喜びです。
正直、ショーはそんなに面白くなかったですが、まあ、長寿のお祝いみたいなものですからね。
・・・・・・・
東京に住んでいたころの私は、時々クラブに出かけては、大きなスピーカーの前で音圧の風を浴びながら、目を閉じて一人で黙々と踊るのが好きでした。それは決して洒落たものではなく、大きなものとつながる恍惚を味わう、ひたむきな儀式のようでした。
前回スクラッチ・ペリーを見たのも、そうした”儀式”の一環だったと言えます。その時は、なぜか平日の夜にショーがあり、次の日も仕事だった私は早々に切り上げて帰ったのを覚えています。
そこから、ずいぶん時が流れました。
けれども、音や光の波に囲まれて、フロアで体を揺らす自分は、以前の自分とまったく何も変わらないように思えました。
目を閉じれば、お馴染みの暗闇。やがて、解放と恍惚。
・・・・・・・・・・
20代の頃、私は臨死体験をしたことがあります。生活費を稼ぐためのアルバイトで働き過ぎて、貧血と過労のために倒れてしまったのです。
どれくらい時間が経ったのか、ふと気が付くと、真っ暗な場所に、私の意識だけがありました。
その場所は、懐かしいとか、心地よいとか、温かいと表現できるかも知れません。後から考えればそのような言葉も思いつきますが、その時は、何の疑問も抱きませんでした。
「あれ…?もうずっと、ここにいるんだっけ?」
私は、思い出せないほど長い期間、その場所にいて、そこにいるのを至極当然のように感じていました。
「何だっけ、この感覚?」
やさしい闇が、何の矛盾もなくすべてを包んでいました。自分がその一部であることを疑おうとも思わない、完全な全体性の感覚。
その時、私は自分が誰だったのかを、すっかり忘れていました。そもそも人間だということすらも、思い出せませんでした。肉体の感覚はなく、意識だけが脈打ち、呼吸しているように感じました。その場所は、あまりに満たされていて、あえて形を持つ必要などないようでした。
「ずっと、ここで、こうしていたんだっけ?でも、そうじゃなかった気がする」
暗闇の中で言葉を紡ぎ出し、思考するという感覚が、妙に心地よく感じるのに気付きました。
「 この感覚はよく知っている。でも、何だったろう? 」
一点の光が灯るような、もしくは水面に波紋が広がるような、その感覚がとても心地よく、やさしく馴染むのを味わいながら、”自分”を辿っているうちに、意識がぎゅーんっとどこかに吸い込まれ、はっと目が覚めると、病院のベッドの上でした。
一瞬置いて、肉体の感覚がじんわり戻り、ようやく、私は自分が私であることを思い出しました。
・・・・・・
目の前では、83歳のスクラッチ・ペリーが、志村けんのコント並みのジイサンぶりを発揮していました。さらにシュールなことに、私の隣には夫と呼ばれる人物がいて、私はオークランドに住んでいました。
あの頃から考えると、すべては一瞬の夢のようでした。以前と比べて出来るようになったこともあるにはありますが、手に入れた分、消化してしまった分もあって、結局、私の人生のプラマイは、いつでもゼロに戻ってしまいます。
確かに、目を開けて見える風景は、大きく変わりました。でも、それは周りの”舞台装置”や”衣装”であって、私自身ではありません。
外側の世界がどう変化しても、私という存在の”本体”は、いつもあの懐かしい場所にいて、何の矛盾もなく満たされ、すべてとつながっているように感じます。
その感覚と共に、私は長い長い旅を続けて来て、きっとそれだけが、私が手にしているものなのかも知れません。
- スピリチュアル・アーカイブ
- / trackback:0
- / comment:0
- [ edit ]