「背景」としての自分、あるいは意識
不愉快さと嬉しさを同時に感じるという感覚は、自分という枠が妙な具合に外れてしまった、それも影響しているかもしれません。
諸々の思考や感情、好き嫌いから価値観、記憶や信念まで、それぞれのパーソナリティを形作る様々なパーツがあります。
そうパーツです。
ちょうどパソコンに保存してるプログラムやファイルみたいなもの。
プログラムとファイルだからね、
ただの。
気に入らないものはデリートするとか、編集し直したり、金輪際起動しないようにしたりとかね。
そんでもって、それ、どんなに重要度の高いものでも、CPUじゃないです。
プログラムやファイルの集積が、色々な凸凹を作り、行動パターンや感情パターンを作っているだけで、これこれのパーソナリティという設定は、そのパターンが変われば、変わっちゃうし、大体においてその不安定なパーツの集積に過ぎないものを、永続的な固定した自分って言える?
本来の自分は、そのファイルを自由に操作しているだけだった筈なのに、いつの間にかファイルの集積の方を自分だと信じるようになっちゃった。。。
パソコンの例えではCPUですが、実際に感じたのは、自分が光のドットになって偏在しているという感覚です。
そこにネガティブでもポジティブでものプログラムやファイルが浮かんでいて、行ったり来たり、消えちゃうのもあるし、入ってくるのもある。
不愉快なファイルがあっても、喜びのファイルもある、それで当たり前みたいな。
そしてさらに、高次の自分は、そのCPUですらないことも感じました。
要するに、感情や記憶、信念やら思考があれこれ浮かんでいる「背景」、地の部分こそが、この意識であるところの自分だということが、ありありと納得されました。
パーツの集積に過ぎないパーソナリティを、延々自分だと信じ込んでいたことの方が不思議になって来たりして。。。なんで、そんな風に信じちゃったのかな…と、不思議で仕方がない。。。
そうすると、本当になんでもありで、ブチ切れてもブチ切れていることに対して抵抗感が生じません。
抵抗しないので、つまりブチ切れてはいけないなどという干渉波が出ないため、あの嫌な、アクセルとドライブを一緒に踏んでいるような葛藤からも自由でいられます。
この「背景」という意識でいるためには、十分に波動を上げる必要があり、しょっちゅうずり落ちるので、なかなかこんな風にはゆかないです。
ただ、一度体験してしまうとアンカーのようなものが残るので、ずり落ちるにしても安心感があって、随分マシです!
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