執着の重さ
昨日は、母方の叔父の葬儀でした。
90歳近くの天寿を全うして、散々病気をした後に、家族も諦めて治療をしない自然死を選んだため、眠るような大層楽な移行だったそうです。
というわけで、悲壮感も無く、久しぶりに親戚一同が顔を合わせて旧交を温めるような賑やかな面もあり、叔母自身が、亡き夫がこんな機会を作ってくれたと感謝していました。
斎場はとても綺麗で、公園に面した清々した場所だったのと、葬儀がこのような晴れやかなものだったので、エネルギー的な疲労も最小限でしたが、火葬場だけは逃げ出したくなるほどの重さでした。
実は、最初、従兄弟に案内されてお線香を上げさせていただいた時から叔父の顔が見えていて、十年単位の長患いから解放されたこともあり、とても朗らかで嬉しそうでした。
その叔父の顔が曇ったのが、最後のお別れで棺の中を花でいっぱいにしている時です。一番近い姉妹や直接の家族が遺体の頬を撫でながら、涙にくれる…当たり前のことですが、やはり深い悲しみを叔父も感じているようでした。
この最後のお別れをして、そのまま同じ建物にある火葬の場所に移動して、エネルギーの違いに唖然としました。
まるで米俵でも乗っけられたような重さ…
肉体が自分自身だと思い続けて、肉体を脱いでも真実を理解していないご本人や、その故人が火葬にふされた後は絆を失うと嘆き悲しむ親族の重い執着が、あたり一面に特別に重い空間を作っているようでした。
でもね…無くなるのは肉体だけで、別の体で生きてるんです!と言うのは、まだ流行前なので、黙っているしかありません。
何年か前の父方の伯父の葬儀で、十年以上体の自由がきかず、最後の肺炎で大変な苦しみの中で亡くなったせいか、今回の叔父よりもよほどテンションが高くて、自分の棺の横に立ち、満面の笑顔でスキップしかねないほどの伯父を見た時には、流石に驚きました。
透視の訓練をした後の初めてのお葬式で、故人自身が出席していることが多いとは聞いていたものの、やっぱりびっくりしました。しかもね、すごいにこにこではち切れんばかりの喜びようでしたから。。。それでも、親友が涙と共に弔辞を読んでいた時だけは、がっくりと肩を落とし、別の体でも涙が出るのか、腕で顔を拭っているようでした。
今回は、満足そうに微笑んでいる叔父が見えても、ああ、やっぱり…(^^)くらいでしたが…。寂しそうに涙をためている従兄弟に、よほど伝えようかと迷ったものの、やめておきました。
体調不良で欠席した両親に報告を兼ねて実家に寄った際には、見たままを伝えました。あの人たちは、この変人娘の言動にすっかり慣れていて、「ぱぱのお葬式の時は、お通夜で気に入らないことがあったら告別式では手直しするから、ちゃんと言ってちょうだい…」などと父親に話しても、別に反論もされません(^^;)
ただ、死というものの理解が違うだけで、執着が無いのとは違います。
肉体に対する執着は限りなくゼロに近くても、大事な人が別の世界に行ってしまう、それも本人のためには、できるだけ早くこちらのことを忘れ、故郷の生活に馴染むのがいいので、向こうの進歩が早ければ早いほど、こちらでの絆はどんどん薄れてゆくでしょう。
そんな事を考えると、特別に親しい人を見送る時は、綺麗さっぱり執着なし、というわけには行かないです。
それでも、キャロリンのメッセージにもありましたが、執着は、する方にもされる方にも重荷には違いないので、どうするかな…(--;)
- スピリチュアル
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