援軍はどこにでもいる
父ほど絆の深い人が帰る時には、それ相応の色々なことがありました。
母が夢の次元で、一週間を切った時点で「そろそろだから」みたいな情報をくれたことは既に書きましたが、父が亡くなる前日は、ウチの鳥の様子が変でした。
放鳥するのでケージの扉を開けてやり、私はちょっとだけ残っていた洗い物を始めましたが、鳥は立ち止まり、立ち止まりすごく不思議そうに天井をじいっと眺めるので、ピンと来て「じいちゃんが来てるの?」と話しかけましたが、しばらくは同じように、天井の一点を見つめては不思議そうな顔をしていました。
その日の朝、電話で担当医から、延命治療について尋ねられ、本人から延命治療を望まない旨のメールが来たこと、また残される家族(=私)も同意していることを伝えると、苦痛を緩和する麻酔を調節するとのことでした。
まだ肉体は活動を続けていても、意識が肉体から自由になりかけると、このような事が起こります。
病院で対面すると、父が肉体にも病室にもいないことが即座にわかりました。
それでも長年見慣れた体です。
綺麗な水色のハンカチを顔にかけてもらい、霊安室に移動する最中、これで本当に物質的にはお別れだと慟哭のようなものを感じた途端、廊下の角にストレッチャーが引っかかって、一瞬移動が妨げられました。
ストレッチャーをとどめたのは、私の想いだったか、父の想いだったか。。。
霊安室では、担当医や看護師の方達がお参りしてくださいましたが、その際、主治医でいらした医師から、長く診察を受けていた副院長が最後の診察をその日の朝してくださったと聞き、涙の堰が崩壊しました。
父が最後までお世話になった聖マリアンナ医科大学病院は、重症者が搬送される、地域のコロナ最前線を担っている病院です。副院長として過酷なスケジュールをこなされていたに違いないのですが、わざわざ来てくださったのです。
直葬では、昨年の母の葬儀の際に大中小のトラブルを二人で握りつぶし、まるで戦友のように乗り越えた同じ方にお世話いただき、最初から気が楽でしたが、会館のご厚意で、本葬儀が入っていないからと広い会場でゆったりと納棺ができました。
少し早めに来てくださいと言われたのですが、「戦友」は実は金管がお得意だそうで、笛で「アメージンググレース」と「故郷」を演奏して見送ってくださいました。
ひどくめげている時、いつでもこんな風に人々の善意や親切をありったけ受けられるとは限りません。
人生には孤軍奮闘で頭を抱えるしかない事もありますが、そういう時には目に見えない援軍がちゃんと取り巻いてくれています。
少し前、大勢いる一般常識人の親戚とのやりとりで疲労困憊した日のこと、夜ゴミ出しに行くと、真っ白な羽が一枚道路に落ちていました。それを見た途端、ふうっと脱力してリラックスできました。
羽、特に白い羽は、「見守っているからね!」という天使やガイドからのサインなのです!
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悲しめるという幸せ
母が帰ってしまった時は全然違って、というのも体も動いたし、コロナで外出制限がかかる事もなかったため、その日からフル回転どころか限界を超えるような労働の日々が始まりました。
葬儀の前後は洗濯機の中で回っているかのように、どっちが上でどっちが下だかわからないような状態でした。
その後熱を出して寝込んだ後は諸手続きで駆けずり回り、幸い事務が苦手ではなかったので、ひどく辛かった記憶は無いのですが、朝から晩まで煩雑な書類の山に埋もれて脳が興奮し続け、ちょっとやそっとの瞑想では交感神経が鎮まらず、2ヶ月間ぶっ続けで睡眠障害を抱えました(^^;)
そこまで忙殺されても、悲しみに直面せずに済むという利得はあり、それでも葬儀の準備中だか、胸が割れるほど痛くなった時は、諦めて時間をとって泣きました。
その時は、悲しいことは悲しくても、母の死を悲しめることに幸せも感じていました。
母とは若い頃からうん十年のひどい葛藤を抱え、絶縁してもおかしくないようでしたが、自分を癒す過程で、母を受け入れて愛することができるようになり、晩年は穏やかな良い関係でいられました。
もし憎み続けていたら、母がいなくなっても、純粋に悲しめなかったことでしょう。
父とはとても仲が良くて、喧嘩もしましたが、母が亡くなってからは助け合い支え合って、本当に良い親子でした。
だから悲しみや辛さは人一倍でも、仕事柄、親子関係の相談はしょっちゅうなので、そうやって親の別次元へのお引越しを深く悲しめるのは、とても恵まれたことだと思えたりします。
悲しくて嬉しい、やっぱり人生は可笑しい、そしてステキです(^0^)
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失恋してました
息子さん宛てのメールを送信した翌日、まだ解約せずに置いてある父の携帯が鳴りました。
ナンバーを見ると国際電話で、とってみたら、やはり父の友人からでした。
朝、ファックスが来てね(息子さんが私のメールを送ってくださったのでしょう)、読んだら、涙、出ちゃってね。。。
四十年来の付き合いで、日本にただ一人残っていた友達だったからね。。。
コロナが無ければ、3月に来日される予定だったそうで、最後に会えなかったと、とても残念そうでした。
最期は安らかだったかと聞かれ、急激に悪化した後はお医者様が麻酔を調節してくれたので、一つも苦しまずに逝きましたなどと話しているうちに、二人で泣いてしまいました。
今は辛くても、これからはずっと幸せに生きていてくださいよと何回も念を押すように言われると、まるでもう一人の父が励ましてくれているようでした。
電話を切った後も涙が止まらず、また混乱が始まりました。
パパね、韓国のキムさんから電話があったよ、
会えなくて本当に残念だったって。。。
と話しかければ、父に通じているのもわかるし、顔も見えたりしますから、死んじゃったとは全然思っていないわけです。
でも、どうして悲しい!?
しばらくして、ようやくわかりました。
失恋したのとおんなじ!
相手はまだ生きていて、コミュニケーションしようと思えばできなくもないけれど、もう人生をシェアする可能性は無くなったわけで。
父が老人ホームに移ってから、毎週頼まれたものを届けに行くついでにお弁当を持参して、二人で食べました。
もう既にこちらもひどく具合が悪かったので、手作りできず、駅前の大戸屋のお弁当でしたが、揚げ物とか大好きな肉食人だったので、ロースカツ弁当などを持参すると、すごく美味しいと言って嬉しそうに食べていました。
父はいつからか鬱屈するような感じでしたが、私の訪問だけが楽しみだと言って、私自身体がひどく重くて面倒な時もあったものの、父との週一の会食(とは言えないなあ)は楽しみでした。
次の祥月命日には、大戸屋のお弁当を供えますかね(^^;)
きちんとしたお葬式ができないことを伝えた際、いつもの調子で「いいよっ」と言い、ちょこちょこたくさん供養してもらいたいとのことでした。
父の日も催促されているようで。。。
ようやくマインドが状況を理解して呑み込めたので、これからは悲しみがこみ上げても、シンプルにきちんと受け止められるようです。
失恋したのがわかってほっと安心するって、この人生、やっぱり可笑しいわ(^^)
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送信成功!
さすがに気をつけているので事故も無くなり、ようやく体が立ち直ってきました。
でもね、小腸から断続的に漏れていた毒素が血液経由で全身性の炎症を長期間起こしていたんでしょうから、すぐさま元気溌剌を期待するのは無理のようです。
それでも昨日はずっと気になっていた父の韓国の友人に連絡をと思い、父のパソコンを開けば連絡先がわかる筈なのですが、う〜…親子のPC趣味が違って、機材が違うだけでなくこっちはMac、あっちはWindouwsということで、以前ちょっといじって「ダメだこりゃ」と思ったまま、実家に置きっ放し。
ということで頼りは、父の友人の息子さんに、以前ソウルでお目にかかった際にいただいた名刺のアドレスだけです。
届くかな〜と思いながら書いて送信したところが、やっぱりダメ。。。
不安神経症で、夜一人で寝るのが怖いなどという父親の、何役(守り役?)になるのか、とにかく一緒に出張に付いて行ったのが、もう15年かそこら前のことです。
父が仕事をしている間、私は初めてのソウルで勝手に遊びまわろうと思っていたところが、父の友人の息子さんが、社長(父の友人)命令で仕事を一日休み(@@)ソウルの街を案内してくださいました。
「どんな場所が好きですか」と聞かれ、日本語堪能な方でしたが、「〇〇と鶏は高いところが好き」などという表現がありまして、私はそれなのでとお伝えすると、最初にNソウルタワーに連れて行ってくださり、お天気も良い日だったので、ソウル市内を一望できて嬉しかったのを覚えています。
その頃はベジだったため、お肉!の韓国なのに、高級店が立ち並ぶ街の鰻料理店の個室で、上品な懐石をいただいたりと、本当に至れり尽せりでした。
ご両親からか、厳しく一流の躾を受けただけでなく、エグゼクティブとして鍛えられる過程で、よくもまあ!と震撼するような転職前のサムスンでのご経験を経た方で、人生最初で最後(多分)の、すごいエスコートと接待を受けた極上の一日でした。
息子さんでもこうですから、そのお父上という方に、父と一緒に韓国宮廷料理をご馳走になった際は、一生忘れられないほど強い印象を受けました。
父からの話では天才だということでしたが、難しい日本語を習得するのにも大して苦労がなかったそうで、日本人かと間違うほどの流暢な日本語。そして懐の深い素晴らしいお人柄で、心底敬服しました。
それと同時に、父がこのような友人に恵まれたことに感謝すると共に、正直なところ驚きました。本当に滅多にいないような方なのです。
日本が好きで、夏など北海道にひと月ほど避暑にいらっしゃり、美味しい夕張メロンを送っていただいたこともあります。韓国の人にね、夕張メロンもらうってね(^0^;)
さて、困ったな。。。
どうしてもこの方には連絡を差し上げたい。
ということで、息子さんが継いだ筈の会社のHPに行くと、@から後が変わっていることに気づきました。
で、もう一度送信し直すと、今度は帰ってこないみたい。。。
その瞬間、携帯にメールが着信♪
見ると、お香典のお返しを送った従兄弟から「届きました!」というメール。
おお〜!!!
これはサインに違いありません。
そして、やっぱり本当に届いていました。
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体温計の肩たたき
昨日の午後、父がシルバーコードを切って帰ってしまいました。
本当に丈夫な体で、山ほどケミカルを使い、私ならとっくにお陀仏みたいな治療を長年続けていましたが、やはり寿命には勝てず、一気に悪化しました。
病室にパソコンは勿論、ルーターまで持ち込んでいて、メールのやり取りも頻繁に出来、亡くなる二日前まで電話でも話せましたが、その時「もう疲れちゃったよ…」と父らしくもないことを言ったので、覚悟を決めました。
東北大震災の夏に、菌が特定できない奇妙な肺炎にかかり(原因はプルトニウムだと思う)、その際、気管切開をして人工呼吸器をつけたら、話せないまま外せないことも十分ありうると医者に告げられ、手術を待つ間、深夜一人で待合室代わりの会議室で泣きました。
その後も何かあるたびに泣いたり、覚悟を決めなおしていたので耐性がついていると思っていたのですが、そうでもなかったな。
この一週間はことのほかきつくて、断頭台の刃がいつ落ちてくるかというプレッシャーにさらされたせいか、こちらも持病の肺MACの症状が出始め、この一日二日で呼吸が止まる可能性があるとお医者から特別な面会の許可をいただきましたが、「絶対来るな、家から出るな!」と毎日のように言われていて、おまけに微熱まで出始め、最後の面会を断念しました。
うちには世話の焼ける鳥がいるので、私が感染して隔離された場合、感染者の自宅から感染している可能性のある鳥を預ける先がありません。
マスクをして完全防備でお世話に通ってあげると、お隣のお友達は言ってくれましたが、ご主人は軽くても高リスクに分類される持病をお持ちだったりして、とても頼めません。
父の場合は普通の肺炎だったし、大病院でもまだ状況は逼迫していない中、お医者さんや看護師さんたちに手厚い看護を受けることができたので、それも今の世界ではとても恵まれたことに違いなく、本当に有難いです。
本来なら、最期に付き添い、あちらからの出迎えによろしくと言って送り出すのが、こういう変な娘の務めと信じていて、そのご奉仕ができないことはとてもこたえました。
意識でだけでも、と時々父にエネルギーを飛ばしていたので、意識状態が落ちていた父に通じた可能性はありますが。。。
かけがえのない家族をいきなりもぎ取られるように失い、お葬式らしいことも一切できない、あるいは遺体の埋葬場所すら探さなければわからないようなことに比べれば、比較にならないほどマシでも、特殊な状況下で同じ悲しみを共有しているわけで、それはそれでとても貴重な気もします。
でも、父の肉体が崩壊しただけで、父の意識は生きていることをはっきり知っているだけでなく、感じられるし、今はデリケートな期間なので遠慮していますが、そのうちコンタクトしてみるつもりです。
マイケル・ローズも前夫人を突然失った際、彼女とクリアーにコンタクトできるにもかかわらず、喪失の痛みから立ち直るのに随分かかったことを読んだ時、不思議な気がしました。
これは幻想だとわかっている筈なのに悲しかったりして、マインドはまたひどく混乱します。
本当に幻想なのにね。。。
今月1日は母の誕生日で、父の入院騒ぎなどで、二人してお彼岸を無視したため、お菓子や果物、お茶やお花を用意して、お祝いのお茶会を催しました。
と言っても、私一人で母に「パパはそろそろそっちに帰るから、ちゃんと迎えに来てあげてよ、ガイドと相談して」などと語りかけながら、食べてただけなんですが。
次の日の明け方、とてもクリアーな夢を見ました。
現実の今の実家は暗くてごちゃごちゃで(うう、あれをどうやって片付けるんだ?)、長居したくないような場所ですが、夢の中では清々として明るく、たくさんの人が玄関先に集まっていました。
両親がいて、二人とも大層ご機嫌でした。
父は白い着物を着て、変容のすみれ色をしたネットでできたようなベストをはおっていました。
ふと正座をして向こうに軽くお辞儀をするようにした左肩を、感じの良い見知らぬ女性が、儀式のように体温計で(^^;)そっと4回叩きました。
私は「これは一種の終油の秘蹟だ」と思い、胸が詰まるような感じで涙を堪えていました。
夢の中では臨終の聖なる儀式だと解釈していましたが、肩たたきですからね、辞職勧告じゃなくて、なんて言えばいい?
その上、体温計って。。。
最後までわかりませんでしたが、おそらく、病院で亡くなるという情報だったのでしょう。4回は4週間かと思ったのですが、し=「死」だったかもしれません。
母はちゃんと私の話を聞いていて、父のガイドと一緒に、大丈夫だから安心するようにと私に情報をくれたのでしょう。見知らぬ女性は、私のガイドたちと一緒で、普通の容姿をしていても、ガイド特有の感じが濃厚でした。
丁寧なお見舞いや、回復を願ってくださった皆さま、本当に有難うございました。父は、よく調整された麻酔で苦しむこともなく、眠るように体を脱いだそうです。
人はいつか、この次元を離れ、故郷に錦を飾って凱旋します。
でも、死別は存在しません。
生き別れと一緒。
でしょ?
悲しみや痛みに執着の苦しみが絡まなければ、それはとても澄んだ詩のようなものです。
感謝と感動と深い悲しみと…それからもっと色々…
家族としての素晴らしく豊かな経験を、この体とともに与えてくれた父に「さようなら!」を言う必要はないので、これからは別の形で「どうぞよろしく!」
この状況下で、たくさん人を集めてお葬式などとんでもないと思うので、高齢者が集まって宴会しても全く問題がなくなる時期を待って、お別れの会を催すつもりです。
と言うわけで、今回は、お葬式前後の狂騒曲で駆けずり回らずには済みますが、肺MACの炎症なんかをいつまでも引きずるのはヤバすぎるので、しばらく養生です。
その後は、オンラインや電話でできる手続きや、父の友人知人縁戚への連絡やお世話になった医療関係者へのお礼、老人ホームでの所持品をどうたらこうたら…数え上げるだけで熱が上がりそうです。
このような事情で、しばらく記事のアップはできそうもありません。
皆さま、どうぞ、できることは何でもして、この期間を乗り切ってください。
不義理だろうが何だろうが、今は自分をしっかり守ることが他の人を守ることにつながります。
少しでも余裕のある方は、この激震を利用して不要なエネルギーをガンガン手放してください。
激しい揺れが収まり、刷新された後の世界で、刷新されたエネルギーをまとって、またお目にかかりましょう!
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